●タイトルにエラーがありました。お詫び申し上げます。
記事後半です。
焼き立てですので後に訂正の可能性があります。
長いのであまり改行操作していませんが、読みにくければお知らせください。
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つづき
芸術に溺れはしていたが、他のピアニストのコンサートに出向くことは無くなった。
が、他のピアニストがトロント公演の際には時折向こうから連絡がある。
グールドは頻繁に彼らに言う。
「よく我慢してそんなことやってられるもんだね。」
一度尊敬するアルトゥール・ルービンシュタインに訊かれたことがある。
「人々の魂を手中に収めているんだという感覚を味わったことが無いのかね?」
グールドはこう答えた。
「僕は別に魂は欲しくないんです。」
自分には常に変わった物の捉え方があるとグールドは認める。
『13の歳くらいまで周囲は自分とほぼ全く同じ感じ方、考え方をしていたと思い込んでたよ。』と彼は言う。『皆自分と同じように曇った空が好きだと思っていたし。なのでお日様の方が好きな人もいると知ったときにはかなり驚いた。』 年がら年中、いうなれば11月初旬のトロントのような天候であることを願うグールドだ。
天才グールドが音楽人生のスタートを切ったのは3歳の頃だった。
ノルウェーの作曲家エドヴァルト・グリーグを血筋に持つグレンの母フローレンスが彼に音階を教え始めたのだった。そして彼が10歳になるまでピアノを教えた。父ラッセルはアマチュアバイオリン奏者で歌も歌い、トロントで毛皮業を営んでいた。10歳になったグールドはトロントロイヤル音楽院でピアノ、そしてオルガン(そしてバッハの音楽)を学び始める。13歳ではそれまで78-rpmレコードのシュナーベルで何百回となく合わせ弾きしたベートーベンのピアノコンチェルト第四番第一楽章を音楽院のオーケストラと演奏した。
音楽院での彼の教師はアルベルト・ゲレーロだった。が、しかし、ロザリン・トゥーレックのレコードを聴いて以来、恩師のバッハよりトゥーレックのバッハ(『安らぎの感で凛としている』)を好むようになったという。グールドは17歳の頃に受けた指揮者レオポルド・ストコフスキーの交響曲のそれまでで最高の感動を語る。ストコフスキー、不敵な重鎮マエストロの最後のベートーベンピアノコンチェルトの録音はグールドとの共演だ。グールドは後にこのセッションの分析的な長文記述を発表した。短めのエッセイではハイフィデリティー誌に意外にも英国シンガー、ぺトゥーラ・クラークへのオマージュを載せたがグールドはカーラジオで偶然彼女の声を聴いて以来のファンなのだ。
1955年、高度なテクニック自慢の若手ピアニスト達がホロヴィッツを超えようとこぞって派手にリストやプロコフィエフの曲目を並べていたのに対し当時22歳のグールドはバッハのような貞操的な曲選びでワシントンはフィリップ・ギャラリーでのアメリカデビューに挑んだのだった。そのプログラムはベートーベンやヴェーベルン、ベルクやスベーリンクなどの、聴く側にとってはかなりの注意を必要とする、多々難儀で楽しい思いをするどころか大変に疲れる曲ばかりで埋め尽くされていた。だが、グールドの場合は話が違ったのだ。そしてそれはNYタイムス誌のレビューから9日後、「今までのどのピアニストにも無いものだ」とワシントンポストの評論家、ポール・ヒューム氏を紙上で唸らせた。
その後彼は自分が良しとするまでの演奏作りの着手を始める。
7日間もの間何度も何度も演奏しては考え選び抜き、自分がこうだと思ったゴルトベルク変奏曲をテープの38分間に収めたのだ。そのLPレコードは出だしから超絶大な売り上げを出し、そして今でも生産され売れ続けている。あの演奏は若かった割りにまぁまぁの出来だったとグールドは振り返る。そしてアーティストとして年月を重ねたことに加え、進化したテクノロジーの存在が彼に新しい解釈での再録音を決意させたのだという。
昨今のグールドは完全な夜型だ。
毎日夕方4時頃にトロントのアパートで起き出し、書き物や読書(歴史、哲学、神学理論など)の他、テープの編集や自宅から10分のスタジオで長距離の長電話をしたりするのが翌朝の7時頃までだ。スタジオは某ホテル内にありピアノは置かれていない。そこでは24時間のルームサービスに頼りベジタリアンの食事を運ばせ、ステーキが好物でアロルートクッキーをつまんでポーランドからのミネラルウォーターを飲んでいた頃もあった初期の食餌とは明らかな違いだ。冷房はなんとか耐えれるようになったが、タバコに酒は未だ受け付けない。グールドは人生においての豊かな暮らしという考えにほとんど重点を置かない。例えばシャツの着替えなど彼にしてみれば、同じようにくたびれたものを順序を並び変えて再度着るということなのである。グールドの生活はまるで修道士のそれのような印象だがその孤独は男友達や女友達の介入により時折破られはする。だが、プライベートな彼はそのどれもが深い関係ではない。
グールドは5台所有するピアノに何週間も触らない。
アパートに2台、別の2台はトロントのある場所においてあり、残りの1台はニューヨークにあるという。彼は一日30分ほどしか練習をしないが、運転中や食事中に頭の中でバッハのフーガを弾いていることもあるというのだ。
『ピアノは指でなく頭で弾くものだよ』 と彼は主張する。 『指で弾くという考えは拭い去るべきだ』
彼はその気になれば年間100万ドルの報酬でコンサート業に返り咲くことができる。
人気の現状をみても55年のあのアルバムの印税で暮らしは安定し、新しい芸術の仕事の追求が可能になっている程だ。1967年から始まってグールドはCBCの元、ラジオドキュメンタリー『孤独三部作』に8年の年月を費やした。これらは北の果てなど隔離された地域に住むカナダの一般人の声を録音し集めた会話のコラージュ作品だ。彼は未だ熱狂的な北の極崇拝者なのだ。続いて彼は『グレン・グールドのトロント』(シティーズシリーズのカナダ編で、ジョージ・プリンプトンのニューヨーク、アンソニー・バージェスのローマ、ジョン・ヒューストンのダブリン他を含む13本のうちの一つ)でカメラデビューを果たした。グールドはエンディングでこう言う。
『長い年月を経て今ようやくトロントを知ることが出来たのは実に興味深い経験でした。』
だが、彼には自分がトロントにいる理由が未だよく分からない。ローマやニューヨークに移ったら頭がおかしくなってしまう。しかしレニングラードにおいてはそこで生産的な生活が送れるかもしれないという。
多領域へと触手を伸ばし始めて以来グールドは1906年夏目漱石作の日本の小説、『草枕』の脚本化を口にしているが、『あの霞のようで幻想的な世界』を生き生きとした脚本にしなければならないという難しい課題を抱えている。映画を監督するということは彼の志の一つだがやはり音楽関係での活動がより予測可能な分野だろう。グールドはこの3年のうちにCBSのレーベルでレコーディングするほど興味をそそられるピアノ曲は底をつくと考えている。そしてその後はまたサウンドスタジオに戻り、レコーディングはコンサートでの演奏の概念で行われるべき、つまりは本番の通し演奏であるべきだという考えを今だ持つ誰か大物ピアニストのLPプロデュース兼監督をしたいという。自分のマルチテイクの信条を印象付けることによって『それを信じない者でもテクノロジーのチャリティーの恩恵は受けられるんだよ』ということを提示しながら説得する自信があるというグールドだ。
グールドがメジャーアーティストをそんな企画への参加の説得に成功したとして、そのアーティストは勿論グールドの基準に適うだけの音選びをしなければならない。彼はリヒテルやホロヴィッツのようなアーティストのプログラムにですら白けることがあるのだ。ホロヴィッツはショパンの曲にとても深く真剣な取り組みを見せるがグールドは笑いの種でしか弾く事がない。だがストリングクオテットやコラール曲に加え『不満になって書き散らかした様々な曲』と自ら作曲もしたグールドはモーツァルトに対して特に厳しい。『28もシンフォニーを出さなければ良いものが書けないなんて、たいした作曲家じゃないよ』25年前、彼はそう言い切った。モーツァルトの17のソナタ全曲を録音し終えた今、その意見はやや変わり、モーツァルトは出だしは快調だったが『BGMにはなんの不足も無いような』作品を出すなど、結果二流に終わってしまったのだという。自分でも録音したベートーベンの熱情などは『エゴ丸出しのうぬぼれた』ものなのだそうだ。リストはピアノのための曲の書き方を知らないというのがグールドの意見だがそのリストのベートーベン第五番シンフォニーのピアノ用編曲を録音するのは構わないようだ。第五シンフォニーに関してはフルのオーケストラバージョンは一層退屈だと考えている。それを煽るかのように自分の第五のレコードには演奏者の自分を糾弾するノースダコタ州の精神分析医や3人の外国人評論家がライナーノートを寄せている。そしてそれは総てまたの名をクロップワイザーそしてスラッツ、つまりグレン・グールド自身が書いたものだ。
真顔ショートジョークから電話口での物真似ネタ。
もしかしたらこれらの冗談は必要なはけ口なのかもしれない。そして彼の生活においての想像キャラクターの数々は引き篭もりだという彼の評判に程よく似合いもする。だが、それはグールドを寂しいコンサートホールの幻として分類することであっては決してならない。隠れていても、彼の世界は豊かなのだ。そして彼はちょっとしたサプライズをとても楽しむ。だがそれは以前体験したある一つを除けばの話だ。某女流画家と深い関係にあった頃、彼女に電話をすると中国人のメイドが出たことが度々あった。実はそれは中国人メイドなどでは全くなく、その彼女の夫の仕業だったという。
グレン・グールドより多少上を行った物真似だったということか。
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